楽しく、気分良く飲むために酒の席でしてはならないことがある。「酒道三戒」、「酒道五戒」とも言われるものだ。もちろん店の特徴や場所、客柄によって、その内容は異なる。馴染み客の多い「頑鉄」の場合、わざわざ注意書きなどしなくても暗黙の戒が守られてきた。その中の一つ「選挙の話はしない」が、この日だけは破られた。
夜になっても30度近くあり、70%の湿気が、暑さ以上に不快感を増す―。7月3日の7時過ぎ。遠野が引き戸を滑らし中に入ると、体にまとわりついていた湿気がす~っと消え、代わりに機嫌良さげな賑やかな声が耳に飛び込んできた。どうやら築地の商売仲間や買い出し人たちも顔を出しているようだ。不快感は一気に吹っ飛んだ。
「とのさ~ん。“せごどん!”良かったなぁ」。ほぼ満席状態で、それぞれの席で盛り上がっていたのだが、何と一番先に大きな声で呼びかけたのが親爺だった。
“せごどん”とは中央区から都議選に立候補した西郷歩美のことだ。もちろん築地を残す可能性がある都ファの候補だからでもあるが、それ以上に地元・鹿児島では“せごどん”と呼ばれていた西郷隆盛の直系の嫁が当選したことを喜んでいるのだ。公示日の先月23日、「完庶処」の美人秘書から薩摩と長州の確執、と同時に薩摩の愚直さと長州の狡猾さを聞かされた親爺、別に選挙の応援を頼まれた訳でもないのに親しい奴には「築地を守るためにも都ファに勝ってもらわんと」と暗に西郷への投票依頼をしていたらしい。美人秘書=阿部京子 恐るべし!である。
遠野は顔見知りの面々に黙礼や手を挙げながら指定席に向かった。そこには「ザッツ」の連中も陣取っていて選挙結果に上機嫌だ。遠野は先客を順に送り込ませ親爺ともども手前に座り、お絞りを使いながら「この大勝なら知事もじっくり料理できるんじゃないか」。遠野は梶谷の杓を受け、「洗心」を一口で飲み干すと、前にあったとうもろこしにかぶり付いた。甘い。
「去年の秋は店をどうするか本気で考えていたんだが、豊洲移転は最速でも来年夏だろ。それもどうなるか分からんし…。ほら、あそこにいる珍味屋の大谷さんも、もう少しやろうかってな」
「続けて下さい。お願いしますよ、おじさん」とは梶谷だ。「銀行時代に上司からいろんな居酒屋、飲み屋に連れていかれましたが、こんなに美味しく飲んで食べられる店はありませんでした。先輩も『親方もいい人だし素敵な店ね』って喜んでいますよ」と微笑んで語りかけた。先輩?刈田、横山、下川の3人は怪訝そうな顔をしたが、親爺は無視。照れ笑いしながら「とのさん!時鮭(ときしらず)食べるだろ?いいのが入ったんだ」と言い立ち上がった。
宝塚記念のサブチャンショックで福島開幕週は買わなかったようだが、正解だったかもしれない。「ところで横山クン。(ラジオNIKKEI)セダブリランテスの◎は見事だったね」。遠野が声をかけると、横山はピンと背を伸ばし持っていた焼酎のロックグラスを置き「有り難うございます。まさか先輩がご覧になっているとは…」と緊張しきりの態。
「ばっか。遠野先輩は現役時から今も、ほぼ全面に目を通しているよ。だから紙面に関しては直接の担当じゃなくても怖くてなぁ」。井尻は遠くを見るような感じでビールを飲む。
「だから煩がられて嫌われてってな」と苦笑いしながら「横山クンのコラムにケチをつける訳じゃないけど、あの◎の根拠に“ご当所馬主”がらみの話を書いていれば読み物としても面白かったと思うぞ」
「あ、はい。でも読者もその辺のことは知ってるんじゃないかと」。反論する所が可愛い。「なるほど。じゃあ社台系がどうして福島にあるの?どうしてシルクなの?」「そ、それは…」と口ごもっている間に、出ていたタコの刺し身を摘まみ「みんなも時鮭注文したら。旨いぞ。まだ残っていればいいけど」。すかさず反応したのは梶谷で「おじさん、私も時鮭参加します」「やってるよ」と威勢のいい言葉が返ってきた。
考えがまとまったのか横山が堂々と答えた。「福島で製糸工場を経営していた馬主の阿部一族と早田牧場が協力して作ったクラブですが、徐々に経営が行き詰まり、追い打ちをかけたのが11年の大震災。で、関係者が勝巳さんに協力をお願いした、そんなこんなで社台系になったと聞いています」。“これでいいですか”という感じで遠野を見上げた。
「概ね正解。よく勉強してるね」。チョッピリ褒めた後、「シルクは乾繭(かんけん)にも関係していることは知ってた?阿部一族に阿部善男さんという人がいて、その阿部さんは勝巳の父・吉田善哉さんと親交があったらしいんだけど…どの程度の関係か知ってる?」。
「カ・ン・ケ・ン?……善哉さん…」。横山はグラスを持ったまま呆然としている。言わずもがなと思ったが、この若者の成長を願って続けた。「横山クンでさえ知らないこともあるんだ。だったら読者は知らないことは沢山あると思うよ。一概に“そんなことは読者が”と決めつけるのはどうかな。だって現実に親爺も去年秋に君から教えてもらうまで社台系列を詳しくは知らなかったじゃん」。
一瞬、静まりかえったのだが、その時、親爺が焼いた時鮭を持って登場。大ぶりなやつが三切れある。「適当に食って」と言った後「あれ、静かじゃない。とのさん何かあったの?」「いやいや申し訳ない。“ノー書きは禁物”という『酒道十戒』を破っちゃって」。
「何が『十戒』だ、モーゼじゃあるまいし。それより横ちゃんよぉ『七夕賞』も社台系かねぇ」。
【著者プロフィール:源田威一郎】
大学卒業後、専門紙、国会議員秘書を経て夕刊紙に勤務。競馬、麻雀等、ギャンブル面や娯楽部門を担当し、後にそれら担当部門の編集局長を務める。
斬新な取材方法、革新的な紙面造りの陣頭指揮をとり、競馬・娯楽ファン、関係マスコミに多大な影響を与えた。
競馬JAPANの主宰・清水成駿とは35年来の付き合い、馬主、調教師をはじめ懇意にする関係者も数多い。一線を退いた現在も、彼の豊富な人脈、鋭い見識を頼り、アドバイスを求める関係者は後を絶たない。
源田威一郎
GENDA ICHIRO
大学卒業後、専門紙、国会議員秘書を経て夕刊紙に勤務。競馬、麻雀等、ギャンブル面や娯楽部門を担当し、後にそれら担当部門の編集局長を務める。
斬新な取材方法、革新的な紙面造りの陣頭指揮をとり、競馬・娯楽ファン、関係マスコミに多大な影響を与えた。
競馬JAPANの主宰・清水成駿とは35年来の付き合い、馬主、調教師をはじめ懇意にする関係者も数多い。一線を退いた現在も、彼の豊富な人脈、鋭い見識を頼り、アドバイスを求める関係者は後を絶たない。