身近に井戸はなく、釣瓶の何たるかを知らない連中が多くなったが、<秋の日は釣瓶落とし>そのままに、寒露を過ぎると、日が短くなった。とともに気温まで急降下、釣瓶同様に井戸に飛び込んだような寒気が襲ってきた。
ほどほどの防寒対策をした遠野が「頑鉄」の路地を曲がったのは5時半。そんな通りの縁台に座っている人影は親爺に違いない。口先が真っ赤な点になったり、消えたりを繰り返している。周りのネオンは数少ないだけによく目立つ。恐らく仕事にかかる前の一服だろう。
煙草ぐらいゆっくり吸わせようと、遠野は静かにゆっくり歩いたのだが、気配を察したのか、時間を気にしていたのか、右を向き、さも当然かのように「やぁ~。らっしゃい」と手を挙げ、すぐに煙草をモミ消した。「どうした?豊洲は?」「どうもこうもないよ」と答えながら店に入った。河岸の引っ越し休みを利用して店は先週いっぱい休んで、ちょっとした改装と掃除をしたとかで、何となく小綺麗になったような気もする。
その中で驚いたのは遠野達の定席の手前に新しい換気扇が追加されていたことだ。立ったまま指さしながら「へへっ。別にとのさんに気を遣ってって訳じゃないけど、これなら板場にも煙は行きにくくなるし、条例にも対抗できるってもんだろ。役所の奴にガタガタ言われる前にしておこうと思って」「ありがとね」。遠野がマジで頭を下げると「よしてくれ。だから『とのさんのためじゃない』と言ったろ」。親爺、照れくさそうに手を振った。
「あら、そんな所で何してるんですか」。振り向くと、いつの間にか梶谷が。首には上品な色合いのスカーフが巻かれている。「さ、上がりましょ」と促した。遠野が上がり、いつもの席に就くと、続いて靴を脱ぎ、遠野の隣に腰を下ろした。親爺は、予期せぬ早い到来に大喜びで自らがお絞りを持ってきた。
「高兄い達もおっつけ来ると思いますが…」「皆まで言いなさんな。ハイ、二人でも3人でも用意はできてますよ」。親爺は胸をたたきながらカウンターに行くと、もやしのナムルとひじきの煮物を持ってきて「とりあえず、これでやっといて」と。
「俺はまずは『千寿』の熱燗を貰おうかな。お雅ちゃんは」。訊くとスカーフを外しながら「私も」と。酒が届くまでは仲居が届けた焙じ茶を両手で包み込みながら飲み、ナムルを摘まむ。「ねぇねぇ。二人っきりなんて滅多にないし、ちょっと相談したいんですが」と梶谷が声を潜める。「ん?」「実は、この間、私の所に回ってきた甘方局長の伝票が胡散くさくて。前にも『あれっ』と思うのがあったし…。髙兄いにも教えた方がいいかなぁと。遠野さんのご意見を聞かせて下さい」。縋るるような目つきで隣の遠野を見た。「お雅ちゃんが悩むってことは、井尻も絡んでいる可能性もある訳だ」「えっ、はいその通りで、例えばここ(頑鉄)で飲んでる日に銀座で同席したことになっているんです。見ます?伝票とパソコン画面の動画があるんです」と言いバッグに手を伸ばした。
「いや。今はいい。それに井尻の耳にはまだ入れない方がいいと思うぞ。待てよ!そうか。それで、この間、京子ちゃんと写真や動画がなんちゃら話していたのか。なるほどねぇ。いずれにせよ、今度、俺の方からさり気なく聞いてみるよ。それまでは内緒」と人差し指一本を口に立てた。
「何の話?内緒ごとかい」と言いながら親爺が熱燗と猪口を置いた。同時に仲居がほろ吹き大根を持ってきた。「いやいや。年内に一度は井尻抜きの4人で『完庶処』に行きたいね、という話」「それは結構。次回来た時に決めよう」。親爺すっかりその気になった。まさに善人である。
薄ら寒い中、汗をかきかき到着したのは横山だ。遠野の対面に座るなり「お待たせして申し訳ありません」と頭を下げた。相当急いだのだろう。肩で息をしている。「そんなに慌てなくても俺も酒も逃げないよ。ところで熱燗でいいかい」「熱燗?あ、いただきます」と言いつつも氷水を所望、一気に飲み干した。
「とのさんも、まだ熱燗?」「そうだな。2合徳利を2本貰っとくか。後は冷酒にするわ」。梶谷は黙って頷く。今日の刺し身は鮃(ひらめ)に秋刀魚、定番の赤身鮪だ。「鮑と焼きは皆が揃ってからでいいだろ」と親爺。異議を唱える奴はいやしない。
「昨日の『秋華賞』はいかがでした」と横山。「親爺は開店準備やら何やらで忙しく、俺は断然人気のアーモンドアイを買いたくなくて、かといって蹴る訳にもいかんし二人とも“ケン”したよ。800幾らだったっけ配当は。買ってたら、当たってガミだったんじゃないか」。大儲けして皆に大盤振る舞いをするのならともかく、済んだレースの話はあまりしたくない遠野にしては珍しく正直に説明した。ただし、不機嫌そうに。
「馬連は880円です。自分はトントンでした」。聞いてもいないのに結果を報告した。「横山君さぁ、終わった競馬をあれこれ言っても仕方ないでしょ。それより『菊花賞』はどうなの。おじさんも遠野さんも買うんでしょ。今年は私3人に乗りますから」。遠野が言いたいことを梶谷が代弁した。「あ、すみません。現時点ではエタリオウとブラストワンピースどちらかですが、買い目は土曜日までに連絡します」。狼狽か緊張か―。慌てて熱燗を飲み噎せている。
「親爺は『皐月賞』『ダービー』で儲けさせて貰った大恩あるエポカドーロ流しは間違いないよな」「そう。受けた恩を忘れちゃお終いよ。だから『皐月賞』②着の藤岡佑介(ステイフーリッシュ)も買っておこうと思って。とのさんは?」「二人と似たようなもんだが、穴で選べばメイショウの逃げ粘りと“豊ちゃん”のユーキャンに祐一のグローリーヴェイズってとこかな。いずれにせよ俺も土曜までに井尻に電話するよ」。
噂をすれば―で井尻と刈田がやってきた。「すみません。遅くなっちゃって。最近とみに金山部長が話しかけてくるようになって…。なぁ刈田」「ええ。チョッピリ煩わしいんですけどね」と言い壁際に並んだ二人をチラリ見て、梶谷の前に陣取った。すぐにビールと焼酎が運ばれ改めての宴会となった。もちろん酒は「洗心」に代わっている。
「そうそう。どう豊洲の使い勝手は?」「最近の天気と一緒で寒くてだだっ広いだけ。観光客が増えても仲卸が儲かる訳じゃねえし…。それに築地で世話になっていたお茶屋さんが廃業しちゃって」「お茶屋?」と梶谷。「そうか、お雅ちゃんも知らないことがあったんだ」とニッコリ。「河岸のお茶屋ってのは……」
【著者プロフィール:源田威一郎】
大学卒業後、専門紙、国会議員秘書を経て夕刊紙に勤務。競馬、麻雀等、ギャンブル面や娯楽部門を担当し、後にそれら担当部門の編集局長を務める。
斬新な取材方法、革新的な紙面造りの陣頭指揮をとり、競馬・娯楽ファン、関係マスコミに多大な影響を与えた。
競馬JAPANの主宰・清水成駿とは35年来の付き合い、馬主、調教師をはじめ懇意にする関係者も数多い。一線を退いた現在も、彼の豊富な人脈、鋭い見識を頼り、アドバイスを求める関係者は後を絶たない。
源田威一郎
GENDA ICHIRO
大学卒業後、専門紙、国会議員秘書を経て夕刊紙に勤務。競馬、麻雀等、ギャンブル面や娯楽部門を担当し、後にそれら担当部門の編集局長を務める。
斬新な取材方法、革新的な紙面造りの陣頭指揮をとり、競馬・娯楽ファン、関係マスコミに多大な影響を与えた。
競馬JAPANの主宰・清水成駿とは35年来の付き合い、馬主、調教師をはじめ懇意にする関係者も数多い。一線を退いた現在も、彼の豊富な人脈、鋭い見識を頼り、アドバイスを求める関係者は後を絶たない。