井尻が阿部秘書から広告の打ち切り予定を教えて貰ったのが2月の17日。あれからしばらくは、社内でそれほど大きな動きな動きは見られなかった。「完庶処」からの広告収入は多い月で200万、最近では定期的なものと細々したものを入れても100万円程度であり、だから、横山の独壇場で終わった前回の飲み会でも話題にはならなかった、と思っていたのだが…。
しかし、広告局内部と甘方との間ではすったもんだがあった。「つい最近(広告の)椎名→下川経由で知ったんですが、甘方局長が出稿停止の原因を別部、ひいては広告局の所為(せい)にしたみたいなんです。ええ『フォローができてなかった。もう少し頻繁に挨拶に行くべきだった』と」。責任をすべて広告局に押しつけたようで、井尻の口振りには少しの落胆が窺える。肩を落とし、筍と山椒の新芽和えを摘まむ姿にも元気がない。
直接の原因は甘方にあることを知っているだけに、井尻にすれば<まさか>の気持ちになるのは理解できる。お嬢二人も井尻の言葉を耳にはしているが、さして興味はなさそうで「酢味噌の味加減もいいね。山椒の香りは春を感じさせるし、烏賊と筍のバランスも絶妙」と旬を楽しみながら冷酒を酌み交わしている。今日の酒は朝日酒造が女性にお勧めとの謳い文句で売り出した期間限定品の「越州・桜日和」だ。
店はといえば昨日が春分の日で休みの影響もあってか満席。親爺はこっちが気になるようだが、例のゲーム屋を含め客の対応に追われている。まだ、腰を落ち着けそうにない。
「ところで京子ちゃんさぁ。先月、別部は一人で来たの?どんな話になったの?」。井尻が知りたかったことを遠野が尋ねると、阿部秘書は、あさつきを付けた針魚(さより)の刺し身を素早く口に入れた後、箸を置き「先日お話した通りで有村は丁重にお断りし、お詫びもしました。『こういう景気ですから申し訳ない』と言って」「で、反応は?」「もちろん別部部長は色んな条件などを示し続行をお願いしていましたが…。最終的には有村の『折角の縁です。また、機会があれば、ということでご了承下さい』の言葉に納得されたようです。それに…」。言い淀み、グラスの酒を飲み干すと、すかさず「局長についてですか」と井尻が先回り。
「いえいえ。局長のことは帰り際に有村が『局長にもよろしくお伝え下さい』と挨拶しただけで話題には上がってません。納得された後は部長も『今後もお店は使わせて頂きますので、たまにはご一緒しましょう』とニッコリ笑って誘い、後は私も加わっての雑談が20分ほど続き『今まで有り難うございました』と頭を下げて帰っていきましたよ」
井尻は会社での甘方の態度、行動にショックを受けているのだろう。それとも遠野の忠告が身に染みたのか、その通りだったのが悔しいのか呆然の態。井尻の前のコップには泡の消えたビールが半分ほど残っている。
「あらあら!どうしたの。随分静かじゃない」。タイミングよく現れた親爺の手には「洗心」と替えの積もりかグラスが4個。「おっと。この調子じゃあビールも緩(ぬる)くなってるようだしこっちも新しい奴を」と言い、ビールを持ってきて座り込もうとした。
ところが梶谷が残っていた「桜日和」を遠野と阿部秘書、それに自分のグラスに注ぎ、一気に空けると「このお酒は、高兄ぃのビールみたいに常温の方が美味しいかも」と勝手に落ち込んでいる井尻に嫌味をブッツケ、ビール瓶と全員のグラスを親爺に渡した。「お雅ちゃんには敵(かな)わねぇなぁ」とブツクサ言いながら受け取り再びカウンターに行き、今度は筍の煮物と針魚の皮を炙った串を仲居と一緒に運んできた。もちろん、そのまま座り込んだ。
「この10日間ぐらいかな。暖かくて雨も降ったろう。千葉じゃ筍が旬みたいになっちゃって。そうそう銚子じゃあ金目が豊漁で、今の時期にすりゃあお買い得の値段でな」。聞いてもいないのに喋りだし阿部秘書の酌を受け、右手でポンと井尻の肩を叩き乾杯の真似事をする。否応なしに井尻も新しいビールでグラスを持ち上げた。
「井尻さんよぉ。それにしても、この前の横ちゃんは凄かったね。あん時ゃスッキリしたもんだが、よく考えると少し心配になってな。大丈夫?あの金山って野郎に苛められてんじゃないだろうな」と親爺。長い間、人を見てきただけのことはあるし、思いやりも人一倍ある。
自分の立場に思い耽っていた井尻は我に返り、注がれたビールを喉を鳴らして飲み干すと「親方にまで心配かけて申し訳ありません。でも、土曜日も月曜日も周りに何人かいたおかげで、その事実があっという間に広がりまして…。あれじゃあ金山も苛めようがありません。大人しいもんですよ」。井尻は初めて嬉しそうな顔をした。「あ、それ本当です。社内で有名。経理の私の耳にも入ったほどですから」「何、それ?」と阿部秘書。「そうか。京子ちゃんは知らなかったね」と遠野が頷き、顔を近づけ要領よく大筋を伝えた。
「ふ~ん。そんなことあったんですか。さすが局長直々の部下ですね。ほら“能力のあり過ぎる部下は無能な部下より厄介だ”って言葉も聞きますが、局長にとってその部長はどっちなんでしょうね」。阿部秘書にしては珍しく辛辣で皮肉っぽい言葉が出た。
「威を借りるだけの無能過ぎる部下も厄介でしょ」。遠野がさらっと答え「仮に金山が都合のいいように弁解しても、今の甘方は聞く耳を持たんだろ。逆に横山君の株は上がったし、レース部にとって大功労者になったんじゃないか。いや、“井尻一派”と見られているのだし、甘方も今後は、ますますお前に接近するかもな」と続け、冷酒を一飲み。グラスを空け「ふぅ~。やっぱり『洗心』は旨い」と。
「勘弁して下さいよ。自分はこれまで通りやって行くだけですから」「そうよ。あまり誘いに乗らないようにしてね!」。梶谷のお節介にはいつもは言い返す井尻だが、今日ばかりは“うんうん”と首を動かし金目鯛の煮付けに箸を付けた。
「でも、その横山さんの直属の上司は知らんぷりなの」と阿部秘書。「梯ってのが部長ですけど“沈香も焚かず屁もひらず”ってタイプで、自分の仕事はちゃんとするけど全体のことなんて全く…」。やっと横山らしくなってきた。
「で、とのさんよ~。今週の『高松宮記念』はどうする?」「そうだなぁ~。買えば豊ちゃんからだが、左回りが不安で…。迷っているんだ。そうだ!親爺は明日、馬券名人の横山に訊けばいいじゃん」
源田威一郎
GENDA ICHIRO
大学卒業後、専門紙、国会議員秘書を経て夕刊紙に勤務。競馬、麻雀等、ギャンブル面や娯楽部門を担当し、後にそれら担当部門の編集局長を務める。
斬新な取材方法、革新的な紙面造りの陣頭指揮をとり、競馬・娯楽ファン、関係マスコミに多大な影響を与えた。
競馬JAPANの主宰・清水成駿とは35年来の付き合い、馬主、調教師をはじめ懇意にする関係者も数多い。一線を退いた現在も、彼の豊富な人脈、鋭い見識を頼り、アドバイスを求める関係者は後を絶たない。