珍しく雨の心配はなかったが、かといって太陽が顔を覗かせたわけでもない。遠野の気分と一緒で10日の金曜日も晴れてはくれなさそうだ。「頑鉄」に向かう東海道線の中で背もたれを倒し目を瞑った。<昨日が224人で今日が243人か>と一人ゴチ、先月末(22日)に訪れた「完庶処」での会話を思い出していた。
その日は梶谷とともに「頑鉄」を中座。タクシーに乗った直後はハラドキで楽しみが先行してたのだが、梶谷の一言で不安に襲われた。浮かれた気持ちはもちろん酔いも吹っ飛んだ。「詳細は分かりませんが、『完庶処』が店舗を整理するとか。阿部さんも『遠野さんには報告しておきたい』とのことで、お誘いした次第で…」――。
「ふぅ~ん。京子ちゃん大丈夫かなぁ」と呟いたのは覚えているが、後は車の中でどんな会話をしたかはサッパリ。ただ、梶谷が「阿部さんは元気ですから」と言い、遠野の左手「完庶処」に着いたのは8時前か。2階に上がるのは気が重かったが右手で手すりを持ち、左手は梶谷が引いてくれたおかげで、いや気が張っていたせいか、さして苦しくはなかった。窓のある個室で換気に気を遣っている。
久々に会った阿部秘書は、相変わらず上品な笑みを浮かべ迎えてくれた。窶(やつ)れたふうはなくホッと一息だ。さらに話を聞いて多少は安心した。要約すると―。
有村家と阿部秘書との間で結論が出たのは6月20日のこと。色んな規制が解除され都道府県の往来が自由になった翌日である。皆の意見は「すべての解除は早すぎる」で、特に有村が強調したのは「人の命を甘く見ている政府と都は信用できない」だった。「一波も二波もない。まだ一波も終わってない。このままだと感染者は増えるし、営業を続けても客は戻らず、客の安全も保証できない。火は小火(ぼや)のうちに消しておくに限る」と。“火”がコロナか損失かは定かではなかったが…。
幸いなことに「完庶処」はホール担当はほぼ学生アルバイトで、しかもコロナ休業の頃は卒入学の入れ替え時で在籍者は少人数だったし、店を閉めても従業員にかける迷惑は少なく、先月と今月末で賃貸契約が切れる店舗も複数あった。で、結局は11店舗のみを残すことにしたらしい。「店が落ち着いたら、またおじさんの所(頑鉄)に連れて行って下さいね」。最後にニッコリ笑ってくれたのは救いだった。
いつもの経路で「頑鉄」に着いたのは6時をチョッピリ回っていた時分。親爺は<今や遅し>とばかりに待ち構えて居て、顔を見るなり「洗心」とグラスを持ち「行こう」と。席に着くと、暫くして牛肉のしぐれ煮、板ワサが届いた。仲居の木村さんが出ていることから判断して今日は他の予約も入っているみたいだ。
「予約制も旨くいってるみたいだし良かったじゃん」。遠野が挨拶がわりに振ると「まぁな。おかげさんで…。ほとんどが行儀のいい常連さんだし、玄関も窓も開けてるから安心してくれてんじゃない。それよりよぉ。政治ってのに腹が立って。東京じゃあ、これだけ感染者が増えてるってのに“Go To キャンペーン”とやらを前倒しで始めるとか。あんなもんコロナの心配がなけりゃ行ける金のある奴は割引しなくたって行くはずだし、地方の観光地や温泉旅館だって、東京近辺からの客は<もう少し待って欲しい>が本音じゃねぇか」。憤懣やるかたなしの態で、一気に喋り、これまた一気に酒を飲み干した。
「西村(大臣)も小池も『想定内。無症状や軽症の若い人の感染が中心ですから医療崩壊の心配もありません』なんて呑気なことをほざいているが、ある意味“政略”かもな」と遠野が応え、板わさを口に入れた。「旨い。山葵も上物だな」「おまさちゃんは山葵にうるさいからな。そんなことより“政略”ってえのは?」。親爺が怪訝そうな顔をする。
「昔、麻生太郎が、どっかに慰問か講演に行った後の記者会見で『驚いたなぁ。90の爺さんが“将来の生活が不安で”なんて言い出すんだぜ。幾つまで生きる積もりなんだ』と言い放ったことがあるだろ。あれが国の本心で“年寄りは早く死ね”ってこと!」
「なるほど」。親爺が膝を叩き「若い奴は普通に行動しろ。それで感染しても死にゃしない。そんな奴が年寄りに感染させることまで国は責任持たんってことか。現状のままなら経済は回り、若者には抗体ができ、しかも年寄りが感染して死ねば年寄りに掛る福祉費も削減できるって寸法か」。親爺、頭の回転が速い。「でもな。そうそう巧くいかんと思うぞ。抗体が有効なのは長くて半年で、一度感染すると後遺症も出るらしいからな」と言って酒を飲み、しぐれ煮を摘まんだ。
「アベゾーもアホー、いや麻生もロクなもんじゃねぇな」「いや。もし、これが本当に“政略”なら、こんな手の込んだ悪辣な事はあの二人には無理だな。“担ぐ神輿は軽くてパーが良い”。アベノマスクと同じで黒幕は東大出身の経産省人脈だろ。第一、西村自身が経産省出身だし…」「経産省の計算通り行くかねぇ」と茶化しハゲ頭を叩いた時、梶谷と井尻が一緒に入ってきた。
「らっしゃい」。早速、親爺が立ち上がり「京子ちゃんとお店は大丈夫?」と。どうやら予約した時に報告を約束していたようだ。「あら、おじさんもセッカチね。一杯頂いてお話します」。クスッと笑い、上がった。今日は遠野の前は空け、隣に座った。梶谷の笑顔に安心したのか親爺はカウンターに行き、お通しを持ってきた。「今、吉野が山葵を摺ってるから板わさは待っててね」と言い、冷や奴と茹で上がったばかりの枝豆を置いた。枝豆は人数分だけ小鉢に取り分けている。
井尻にビールを注いだところで、それぞれにグラスを持ち上げた。「で、どうなの?」。親爺が訊いた。遠野も然有(さあ)らぬ体で耳を傾けた。梶谷はチラッと遠野を横目で見た後、事の顛末を語り始めた。
時折、質問しながら聞き終えた親爺が言った。「従業員の生活と客の安全を優先しての縮小かぁ。偉いもんだね。社長も京子ちゃんも」「あ、そうそう『遠野さんとおじさんによろしく』とのことでした」「そうだね。俺からも一度メールしてみるよ」と遠野が話を引き取ると「織姫と彦星じゃないけど、4ヶ月近く会ってないなんて初めてじゃないか。早く会いたいもんだよ。な、とのさん」「あ、あ…」。一瞬、酒を零しそうになりながらも「あの爽やかな笑顔を拝みたいよ」と返し「今週の『七夕賞』の検討会は終わったの?」「いや。『宝塚記念』と同じで、天気が微妙だから日曜午後に連絡をくれることになってるんだ」
源田威一郎
GENDA ICHIRO
大学卒業後、専門紙、国会議員秘書を経て夕刊紙に勤務。競馬、麻雀等、ギャンブル面や娯楽部門を担当し、後にそれら担当部門の編集局長を務める。
斬新な取材方法、革新的な紙面造りの陣頭指揮をとり、競馬・娯楽ファン、関係マスコミに多大な影響を与えた。
競馬JAPANの主宰・清水成駿とは35年来の付き合い、馬主、調教師をはじめ懇意にする関係者も数多い。一線を退いた現在も、彼の豊富な人脈、鋭い見識を頼り、アドバイスを求める関係者は後を絶たない。