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競馬コラム

心地好い居酒屋

2025年04月09日(水)更新

心地好い居酒屋:第155話

遠野が「頑鉄」に到着したのは7日の午後6時。横山はともかく梶谷に井尻までもが指定席に陣取っていた。ビックリする間もなく梶谷が土間に降りてきて酸素ボンベと遠野が外した鼻孔カニューラ(鼻チューブ)を預かり、差し口を消毒ティッシュで拭き、格子枠の隙間から遠野に向け「どうぞ」と。この手際の良さと優しい心配りを受けられるだけで<まずは来て良かった>。


「ところで井尻!時間大丈夫か?」


「フジテレビの編成部長じゃないけど中抜けしますからご心配なく。前回もそうでしたが仕事を済ませた後だとどうしても時間が気になって。たまには遠野さんとゆっくりお話がしたいですよ」


照れた風に頭を搔く。


「そりゃあ“知ったか”いや井尻さんが居なくちゃダメだよ。今日の『染井櫻』は井尻さんが殊勲甲だもんな」


「いえいえそんなぁ。たまたま古い友人が駒込に住んでいて……。自分がビールしか飲まない事を知っていたもんで飲み会でも普段は自分だけいつもビール。ところが先月末の飲み会で酒の話題になって、遠野さんの受け売りで『朝日酒造』の『得月』や『桜日和』など季節限定酒の話をすると『おいおいここは駒込の染井村だぞ。江戸っ子が『染井櫻』を知らんでどうする』と怒られ、じゃあと販売元に顔が利く奴に注文したんです。尤も今世紀に始まった町おこし事業ですから“江戸っ子うんぬん”はオーバーですけど」


この日は自宅から「頑鉄」に直行。今月から“在宅診療”に移行したことはまだ誰にも伝えていない。親爺からの「吉報吉報。珍しい酒が入った。週明けはどう?」との誘いもあり「実は~」とも言えず出向いた訳だ。


4本買えたそうだがテーブルには2本。残りは冷やしているのだろう。「どれどれ」。遠野が1本を手にとりまじまじと見つめる。ラベルは和紙で真ん中に「染井櫻」。裏には「江戸染井村発―日本の心を伝えたい」。ご丁寧にキャップにも和紙で縦掛けに封がされている。瓶は細長く容量は500ミリだ。優雅ではある。遠野とて寡聞にして知らなかった。 テーブルには定番の蒲鉾を筆頭に竹の子の煮付け、芹の白和え、酢味噌付きの蛍烏賊が並んでいる。飲食をそそる付きだしだが箸は後。まずは一献だろう。親爺が封を切りキャップを外すと「私が」と梶谷が瓶を持つ。グラスには一片(ひとひら)の桜が。“染井吉野”に引っかけたシャレじゃあるまいが板前・吉野の工夫か。梶谷が遠野→親爺→横山と注ぎ「井尻さんも一口いかがですか」と従兄(横山は関係を知らない)の顔をまじまじ見つめる。勝手が違うのか井尻もオタオタしながら「少~しだけ」。「じゃあおまさちゃんには俺が」と遠野。4人のグラスの中の桜が漂ったところで乾杯となった。


「チョッピリ甘いかなぁ。でも喉越しがスッキリして美味しい。高兄ぃ……。いや高いんでしょ」


苦しい言い換えだ。


「昔は“桜咲く”で万歳。“桜散る”で涙だったが、今や携帯どころかWEBで、だもんな」


「テレビでもそうですがスマホ写真の転送でいつでも何処ででも見られますからねぇ。まぁ桜が散ったからといって泣く人は少ないと思いますが」とシレッとして横山が応える。


「はいはい。横山君は飲みが足りないみたいね。さ、ぐぅっとやって」と梶谷が笑いをこらえて新しい酒を注ぐ。


「<この盃を受けてくれ なみなみとつがしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ>どうだ横ちゃん。これだと散るのはやはり寂しいだろ」と親爺。


「ここで井伏鱒二の傑作を聞けるとは。やはり親方は何でも知ってて覚えちゃうんですね。散る桜には別れを感じさせジーンと来るものがあります」


横山はうんうんと自分に頷きながら竹の子を頬張る。 


「横山さぁ。井伏鱒二がスラッと出たのは素晴らしいがそれは意訳。元は唐代の詩人・干武陵の『勧酒』なんだ。全部は覚えてないが最後の<花発(ひらけども)風雨多し 人生別離に足る>ってな」


さすが井尻、ダテに社会・文化部の部長をやってない。


「そうですか。勉強になります」と言いながらスマホに触る。「ふ~ん。これですか」と感心しながら<君に勧む……。の五言絶句を誰にともなく示す。


遠野と親爺老人二人はため息をつきつつ苦笑い。そんな状況で運ばれてきた刺身にはイシモチも盛られている。まさに“愚痴(ぐち)である。


「とのさんよぉ。俺たちというか、とのさんの時代は終わったな」


「その通り。若い奴には叶わん」


「いえいえ。お二方にはまだまだ健在でいて下さらないと」


梶谷が微笑む。


「いや。もうとのさんの出る幕じゃねぇ。店を開いた頃はよ、分かんない事があったらとのさん頼み。だって、ホラ、フルネームが遠野宏司。名前の方から読めば“広辞苑野(や)”。


今時『広辞苑』なんぞ持ってる奴はほぼ居ないし、第一、横ちゃんなんて捲ったことすらないだろ」


聞いた横山が唖然としていると


「あら!その言葉遊び聞いたことあります。確か……。えーと“アナグラム”でしょ」


梶谷が口を出し舌をチロリ。可愛い仕草だ。


「よく知ってるねぇ。このおまさちゃんの知識に横ちゃん得意のグーグルがあれば鬼に金棒。『広辞苑』なしでも大丈夫だな。とはいえ<功を成す者は去る>(四時の序)でとのさんはまだ功を成してないから去っちゃあいかんよ」


親爺の言葉に苦笑いしながら遠野が後を引き継いだ。


「井尻が手に入れた『染井櫻』のスッキリさとは裏腹に『フジテレビ』の日枝は何とかならんかね。政権ベッタリと上意下達に上納制度で成り上がったのだろうが、一部から見れば功を成したことは確か。完璧に去らんとダメ。息のかかった金光会長や清水新社長あたりが“人事刷新”を唱えてもなぁ」


「日枝は当然ですがトランプも何とかならないですかねぇ。トランプ関税騒ぎで世界はウクライナへの関心が薄くなったように思えるし……。一期だけでも功を成したはずなのに。<功成す者はさらに大功を目指す>ってことか。はぁですよはぁ」


井尻がため息をつく。


「トランプなんてのはお調子者で寅さん風のテキ屋みたいなもん。ウクライナ和平も関税も最初に高いハードルを掲げ、周りが大騒ぎするのを楽しんでいるだけ。どっかで折り合いを付けるんじゃないの。尤も危険人物は間違いなし。去ってくれた方が喜ばしいが」


「あのぉ」


恐る恐る横山が声を出す。


「今週の『桜花賞』は何を買われます」


「あ、そうか。今日はお花見だもんな。『桜花賞』ねぇ」と呟きながら横山が差し出した出馬表を眺め「社台と特にノーザンは軸に買わないからエリカとクリノメイの2頭軸ってとこかな」


源田威一郎

GENDA ICHIRO

大学卒業後、専門紙、国会議員秘書を経て夕刊紙に勤務。競馬、麻雀等、ギャンブル面や娯楽部門を担当し、後にそれら担当部門の編集局長を務める。
斬新な取材方法、革新的な紙面造りの陣頭指揮をとり、競馬・娯楽ファン、関係マスコミに多大な影響を与えた。
競馬JAPANの主宰・清水成駿とは35年来の付き合い、馬主、調教師をはじめ懇意にする関係者も数多い。一線を退いた現在も、彼の豊富な人脈、鋭い見識を頼り、アドバイスを求める関係者は後を絶たない。

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