有馬記念の翌26日に「頑鉄」の親爺から電話が入った。
「どうだった?」。枕詞のように、まずは有馬記念の馬券の結果を訊いてきた。
もっとも、そんなことで、わざわざ電話をしてくるような親爺じゃないいだけに、遠野もピンときた。
「まぁ何とか」と答えた後、「で、何?。悪いけど今日は行けないよ」と先手を打った。
「やはりそうだよね。いや、〝知ったかさん〟が例の若い連中達と来るって言うから、もしとのさんが顔を出せるようなら、と思って」。
恐らく井尻に頼まれたのだろうし、親爺自身も暮れの挨拶と有馬記念の話もしたかったに違いない。
親爺の気持ちも分かるが「ごめんごめん。年明けの6日には行けると思うよ。皆によろしく伝えておいて」と言い、返事を待たずに電話を切った。
正直言えば、遠野は外で酒を飲める状態ではなかったのだ。
19日に「頑鉄」で飲んで帰ったまでは良かった。しかし次の日から37度前後の微熱が続き、23日には39度まで上がった。
肺気腫を抱えている身とあってさすがに〝やばいかな〟と思い仕方なく24日の午前中に近くのクリニックでレントゲンを撮り、鼻の粘膜の検査を受けた。
「インフルではなさそうだし肺も大丈夫でしょう。ただ念のため、28日に呼吸器科の予約をしておきますので受診して下さい」との結果。
まずは一安心で薬を貰い、25日の有馬記念を迎えた。成果は上々で、薬を服んだせいもあってか〝風邪〟も治癒に向かったような気分になったのだが、電話があった26日の午後には38度に…。
親爺に説明して心配かけても仕方ないし、ぶっきら棒にするしかなかった。
危惧していたことが現実のものになったのは28日の午後。担当医がその日のレントゲンを見た途端「大変!肺炎を起こしてます」。
定期健診時や24日の分とを比較、説明しながら断言した。続けて「至急でやらせますから血液検査をしましょう」と。初めて知ったのだが白血球数とCRPなるもので炎症度が分かるとか。
ある程度の覚悟を決めて一旦家に帰り1時間後に行くと「最悪の事態ではなくほっとしました」と医者も安堵の表情。それを見て遠野も胸を撫で下ろした。
「でも、ここは明日から休診ですし緊急時に対応できないので総合病院へ入院していただいた方が…。紹介状を書きます」
「入院ねぇ。絶対ですか?薬を服んで安静にしておきます。できることなら自宅療養にしたいのですが」。
遠野の脳裏を清水の入院生活が過(よぎ)った。着替えに自分用の冷えない毛布の持ち込み…。面倒だし〝滅入るなあ〟。溜息が出た。
その後も問答が続いたが「遠野さんがそう仰るのなら無理強いはしません。その代わり、取りあえず宛名なしの紹介状を書きますので緊急の時は必ず救急車を呼んで持参して下さい。それと年明けの6日11時までの来院をお願いします」。
結局は医者が折れた。親身になって患者と接する医者といえよう。
遠野にしてみれば、大病院といっても暮れから正月三が日にかけては経験豊富な専門医が常時詰めてるとは思えないし、増して肺気腫+肺炎だ。研修生あたりに変な先入観で診られ弄(いじ)られ呼吸不全などと家族に告げられたのでは目も当てられない。
〝自宅で急変があれば、その時はその時。それが寿命というものなら従おう。清水に再会するのも悪くない〟。覚悟を決めての自宅療養だった。
その清水が良く口にしていたのが「四時の序」。清水の場合、まだやりたいことは沢山あったはずだし、元気ならそれができたはず。しかし競馬界に新風を吹き込むという「功」を残して去った。
翻って遠野自身を振り返ると馬齢を重ねたのみ。凡人である。それでも万人に春夏秋冬―。「四時の序」は付いてまわる。
還暦は喜ばしいことだが、耳順も同じ60歳。すでに収蔵の冬を生きているのだから慌てふためく必要はない。
清水からは「とのよぉ。論語と老子を一緒にするな」と怒られそうだが、弱気というか諦観に近いものがあったのは確かだ。抗生薬の効も少なく高熱が続いた30日だったか清水が現れた。
「まだ来なくていいぞ。慣れてなくて案内のしようもないしな。ところで最近の大川慶次郎はどうしてる。別に大川さんが悪い訳じゃないけど取り巻きがどうしょうもないよな。少しは窘(たしな)めてやらんと」
「今さら何を言ってるんだ」と言おうとしたところで目が醒めた。
そういえば何年前だったか故・大川慶次郎氏が記者席のある狭い通路を「doctor-Ⅹ」の院長回診よろしく先頭に立ち、取り巻きの連中が通路を一杯に使い後からゾロゾロ付いて歩いていた事がしばしばあった。
反対からくる人間は立ち止まって隅っこに寄り、行き過ぎるのを待つしかない。そんな光景を何回か目にした清水は〝我慢できん〟とばかりに、ある時、一行が来るのを確認し、あえて向かって歩き、歩を緩めることなく真正面から馬群に突っ込んで行った。
と、さっと道が開いた。清水が堂々とその間を抜けかけた時、誰かが「危ないなぁ」と。
清水は立ち止まり、声の方に向けて一言「もう少し行儀よくしたらどうかね」。すると大川さんは清水に「すみませんねぇ。今後は迷惑をかけないよう気をつけます」と素直に頭を下げた。
清水は拍子抜けの態だったが、大川さんが威張っていた訳じゃないことを知り「お互いにね。じゃあ」で離れていき、その後は会う度にニッコリ笑って挨拶を交わす仲になっていた―。
変な夢だったが、遠野にはよほど印象深かったのだろう。清水の正義感と侠気はもちろん、大川さんの屈託のない笑顔も。
1月6日。遠野から「頑鉄」に電話した。「明けましておめでとう」もそこそこに詫びを入れた。
「親爺ごめん。当分行けそうにないわ。実は暮れに肺炎を患って…。今日、病院に行ったら医者も首を捻ってな。長引きそうなんだ」
「えっ……」。慰めの言葉も思い当たらず電話口で絶句している親爺の姿が見えるようだ。
「また連絡するよ。親爺も身体には気を付けてな」。またしても遠野の方から電話を切った。
【著者プロフィール:源田威一郎】
大学卒業後、専門紙、国会議員秘書を経て夕刊紙に勤務。競馬、麻雀等、ギャンブル面や娯楽部門を担当し、後にそれら担当部門の編集局長を務める。
斬新な取材方法、革新的な紙面造りの陣頭指揮をとり、競馬・娯楽ファン、関係マスコミに多大な影響を与えた。
競馬JAPANの主宰・清水成駿とは35年来の付き合い、馬主、調教師をはじめ懇意にする関係者も数多い。一線を退いた現在も、彼の豊富な人脈、鋭い見識を頼り、アドバイスを求める関係者は後を絶たない。
源田威一郎
GENDA ICHIRO
大学卒業後、専門紙、国会議員秘書を経て夕刊紙に勤務。競馬、麻雀等、ギャンブル面や娯楽部門を担当し、後にそれら担当部門の編集局長を務める。
斬新な取材方法、革新的な紙面造りの陣頭指揮をとり、競馬・娯楽ファン、関係マスコミに多大な影響を与えた。
競馬JAPANの主宰・清水成駿とは35年来の付き合い、馬主、調教師をはじめ懇意にする関係者も数多い。一線を退いた現在も、彼の豊富な人脈、鋭い見識を頼り、アドバイスを求める関係者は後を絶たない。